誠にご無沙汰しております。Zukkiです。
昨年の夏以降、想定外に本業が忙しくなってしまい、執筆までエネルギーが回りませんでした。誠に恐縮至極、深くお詫び申し上げます。
心機一転、頑張ってまいりたいと思いますので、改めてよろしくお願いいたします。
さて、国語力とは三階建ての建物にたとえられるという話でした(地下一階の部分は地上階のお話の後にお話しします)。そして、その土台をなす一階の部分は語彙と周辺知識の豊かさだということは既にお話し済です。まずは語彙力の重要性とそれを育てる方法からお話ししていきましょう。
語彙力とは「読めて、適切に漢字も駆使しながら書けて、意味が人に説明できる程度に分かり、実際に自分で使える言葉の幅と奥行き」のことで、私は国語力の大半は語彙力だと考えています。語彙力の範囲でしか国語力は育たないといってもいいでしょう。
それはなぜかというと、多くの国語学者たちが述べる通り、人間は自分が言語化できるものしか世界として認識できないからです。自分と自分が向き合う世界との間には常に言葉が挟まっていて、我々人間は言葉というワンクッションを介して世界と繋がっている訳です。私も、朝日が部屋に差し込むと、「もう朝か。でも、あと五分寝よう」と、自分が感じた朝日の明るさを言語を通して認識しています。インド料理屋さんでカレーを食べれば「ガツンと鼻へ抜けるクローヴの香りと舌に残るコリアンダーの爽やかな後口の取り合わせが固めに炊いたバスマティライスとよく合うな」なんて思う訳で、ある意味「言葉で食べている」ような感じさえします。つまり、自分が認識、理解できることのきめ細やかさは自分の語彙力に比例する訳で、語彙力が豊かであればあるほど自分の内外に広がる世界の解像度が精密になっていくのです。逆に語彙力に乏しいと、自分の内側も外側も大雑把な書き割りや、曇りガラスの向こうにぼんやりと映る景色のようになってしまうということです。国語の学習は、文章を読み、先生や一緒に学ぶ友達の話に耳を傾けることで成り立っていて、文章も話も全て言葉でできています。そこで何が語られているのか、語彙力の豊かな子ほど多くを理解できることは言うまでもなく、だからこそ、同じ授業を受けていても、同じテキストを使っていても実力に差が出てくるのです。もちろん、自分が誰かに何かを伝える時も同様で、伝えようとしていることを的確に写し取る言葉を十分に持っていなければ上手く伝えられません。
語彙力が何にも増して重要なことはこのくらいお話しするだけで、十分にお分かりいただけると思いますし、語彙力をつけた方がいい、つけてみたいという気持ちになっていただければ、今日のところは大成功です。
次回はいよいよ、「同じ授業を受けていても、同じテキストを使っていても」差がつく語彙力の学習法についてお話ししていきましょう。