国語を究めてみませんか⑧

2025年5月30日

 こんにちは。Zukkiです。

 さて、「テキストを勉強する」ではなく、「テキストで勉強する」ことが重要だという屁理屈のような話で前回は終わった訳ですが、実はこれは非常に重要な問題です。人間はその時の意識のあり方によって記憶の残存率だけでなく、その記憶が色々な場面で活用可能なものになるかどうかが違う生き物だからです。

 「テキストを勉強する」ことが日常になっている人は、「その中の一定の分量や範囲を終わらせる」ことが目的化します。周囲の大人も「勉強終わったの?」「宿題まだやってないの?」という言葉を頻繁にかけがちなので、「勉強とは終わらせるものであり、それが早ければ早いほど大人からの小言が少なくなる」という思い込みが加速します。すると、どうなるでしょうか。

 漢字や語句の知識を培うための教材は問題を解く形式で作られている場合が大半なので、それをできるだけ早く解いて早く答え合わせをして早く直しをして・・・と、事務作業のように進めて行くことになりがちです。自分の語彙力を養うためという当初の目的はいつの間にか忘れ去られ、「早い(速い)ことこそ正義」とばかりに疾走するので、たとえば漢字の読み取り・書き取りの問題などは、例文を読まずに傍線部の語句をひらがなや漢字に機械的に変換していくようになります。そのため、例文が表現している「ある状況や場面」をイメージしてそれにふさわしい言葉を考える、というプロセスがスキップされてしまいます。この「言葉を心のスクリーンに映し出す(映像や音声、時には匂いや手触りをイメージする)」という行為の精度は、相手の言葉から言わんとすることを理解する精度に直結していて、国語力の根幹であるとも言えるでしょう。例文をきちんと読むことはそこを鍛えるために不可欠であるとも言える訳ですが、「終わらせるための勉強」はそこを丸ごと捨ててしまう訳ですから、「漢字や語句の学習を(塾の先生から言われた範囲について)終わらせた」という義務を消化しただけで、自分の語彙力が育っているかというと、なかなかに怪しいと言えるでしょう。また、例文をよく読まない子は、同音異義語や同訓異字の書き分けに弱い傾向があります。「大学のコウギ」を「講議」、「布をタつ」を「断つ」などと何度も間違える子は、ほぼ例文を読んでいません。そして、間違えた問題についても、早く義務から解放されたいので赤ペンで正しい答えを書いておしまいにするというような作業が日常化している子も少なくありません。

 「漢字はやっているけれど定着しない、音読がたどたどしい、なかなか読み終わらない」という状態はその原因を辿っていくと、この「終わらせるための作業=テキストをとにかくやればいい」という悪循環に行き当たるケースが意外と多いですね。

 では、「テキストで」勉強している子は、どのようにしているのでしょうか。次回ご紹介いたしましょう。