国語を究めてみませんか⑩

2025年9月4日

 こんにちは。Zukkiです。

 山根先生のネツベンに思わず心を動かされる。

 塾の漢字や語句の知識のためのテキストに、こんな問いがあったら、家でどのように学習するか、という「宿題」を出したところ前回は終わりましたので、今回はその続きです。

 何度もお話ししている通り、カタカナを漢字に機械的に変換して練習しておしまいにする方法では本当の意味で語彙力を培うことは難しいでしょう。特に用いる漢字を新出漢字として学習する時に「まだ終わってないの?早く覚えなさい!」と急かされるままにそうしてしまうことが一番その子の上達の機会を奪ってしまうと私は考えています(「熱」は四年、「弁」は五年配当の漢字です)。

 ではどうしたらいいでしょう?

 「ネツベン」の意味を調べる=辞書で意味調べをしながら覚える、というやり方をすぐに思いつく人は多いと思います。その言葉の意味や用法を知るきっかけとして辞書は大変重要なツールであることは間違いありません。しかし、これも「ネツベン=熱弁:相手を説得し、その心をつかまずにはおかない力や気持ちのこもった話し方」、というように辞書の文言を機械的に覚えたつもりになって先を急ぐやり方は、大きく分けると二つの意味において賢明とは言い難いのです。この高速処理をよしとする方法は、第一に言葉の持つ力や働きを忘れたところで展開されており、また、実際の現場で自分を助けてくれる知識の形成には至りにくいからです。以下、順を追って説明します。

 言葉は記号として存在します。言葉が記号であるというのはものすごく簡単にいうと「これを○○と呼ぶことにしよう、○○と表すことにしよう、と一定のグループの中で(多くの場合民族や国ごとに)ルール化すること」です。「人間は、ありとあらゆるものに片っ端から名前をつけまくった」と言い換えてもいいかもしれません。つまり、ある言葉が存在するということは、その言葉によって表される何ものか、何ごとかがある訳で、するとその「何ものか、何ごとか」は映像や音、匂い、感触などでイメージできるものだということになります。国語の得意な子、国語が上達していく子は第一にその部分で頭や心を使えていて、国語の苦手な子、国語で難儀する子は言葉をただの音声や活字として右から左へと流し続けているのです(その原因は周囲の大人が押し付ける「高速処理至上主義」であることは言うまでもありません)。ですから、生きている限り継続可能な国語力上達の道は、自分がキャッチした言葉がその中に封じ込めているイメージを解凍して自分の心のスクリーンに投影することの繰り返しから始まると考えていいでしょう。もう分かりましたか?国語の得意な子が、先の問いで真っ先に行っているのは

 「設問の用例文を隅々まで読み込み、そこで表現されていることをイメージする」

 これなのです。

 つまり、こんな感じでしょうか。

 「国語の授業中、覇気のない僕たちに腹を立てた山根先生が一生懸命僕たちに語りかけている。次第に身振り手振りが大きくなり、額には汗がにじみ、振り回した右手で眼鏡が斜めにずれたのを直そうともせずに語る先生の言葉はいつしか、先生の故郷の方言が混じり始めていた。『わしゃあのう、中学受験ができるいうんはどんだけ幸せなことか分かってほしいんじゃ、のうZukki、今わしらがこうしいる間にも世界ではのう。。。』先生の話を聞いているうちに、何だか無性に勉強したい気持ちにかられ、ぎゅっと拳を握りしめている自分に気がついた。先生の額に光る汗は、僕の手の中にもあった」

 例文を読むほんの数秒の間に、こんなドラマのワンシーンが心を駆け巡っている子は、掛け値なしに国語が得意なはずです。まあ、そこまでいかなくても懸命に生徒を鼓舞する先生の姿と、その姿にグッときている自分が思い浮かんだ状態で書く「熱弁」と、ただ事務処理的に書く「熱弁」とでは、自分の意識に刻み込まれる言葉としても密度や存在感に大きな違いがあることがその年齢なりに分かれば十分です。語句の知識を培う学びの本質は、実はこういう精神的営みにある訳ですが、だからこそ、周りの大人は子供を急かしてはいけないのです。そして心のスクリーンに浮かび上がる映像や音、匂い、感触などのイメージの精度が高いほど、相手の話を的確に理解できるということを忘れてはいけません。どんなに長い文章も、沢山の分を意味でもってつなげることによってできています。読解力の高い子にとっては、語彙力系のテキストに出てくるトロークの短い文の読み込み自体が、長くて複雑な文章を理解するための練習になっているから、語彙力に比例して内容理解の精度も高まっていくのです。そして、言葉をそのように受容する頭や心を培うと、辞書の語釈や用例文も同じように読むようになるので、「調べろと言われたから調べました」という義務消化型の時間消費はいよいよ過去のものとなっていくのです。

 しかし、これで安心して次の問いへ行ってはいけません。国語の得意な子は、ここでまだまだ粘ります。いや、「テキストで」学ぶことの真髄はここからだといってもいいくらいです。長くなってきましたので、この続きは次回お話ししましょう。

 皆さんのために、なるべく早くお届けできるように頑張ります。